五話【棘】







「アスランはん!」



櫻舞屋の暖簾を潜ると、女将が慌てて出てきた。
アスランは女将の顔を見ると、軽く会釈をする。


「カガリさんが目を覚ましたと聞いて、こちらに伺ったのですが。」


「そやけども、まだ昼見世も開かしまへんさかい……」


「それは承知の上です。」


女将は苦い顔でアスランを店に入れることを渋る。
しかし、アスランも遊郭では色々と細かい伝統や決まりごとがるのを知っていたので、あらかじめ用意しておいた物を懐の中から取り出した。
それは風呂敷につつまれた小包で、女将はそれを訝しげに受け取るとその重さに目を見開く。



「アスランはん……これは…!」


「ほんの気持ちです。」



アスランが爽やかな笑みを返すと、女将は慌てて近くに居る赤髪の遊女に声を掛ける。



「メイリン!アスランはんを、カガリの部屋までご案内してはって。」


「え、でも私はまだ髪結いが終わってなくて……」


「かまへん、はよしいや。」



アスランが渡したもの、それは金貨だった。
それも遊郭で太夫を選べるぐらいの、立派な額である。
女将の有無を言わさない態度に、メイリンと呼ばれた少女は眉を八の字に下げ
ながらも黙って頷いた。



「すいません、お忙しいときに。」



アスランは廊下を歩きながら、メイリンの背中越しに声を掛ける。



「え、大丈夫です。気にしないで下さい。」



メイリンはアスランの爽やかな笑みに、かぁっと顔が赤くなると、俯いてしまう。



「あの……あなたは、アスラン様ですよね?」



「そうですが。それが何か?」



きょとんとした顔でアスランが首を傾げる。
しかし、メイリンの表情はパァッと明るくなり、アスランに詰め寄った。



「ミリアリアさんから伺いました!カガリさんが道端で倒れていたところを、あなたが発見して助けて下さったと。」



表向きではそういうことになっているのかと、アスランはぼんやりと思う。



「すごいです!……最近、物騒な事件が多いので、お侍さんって怖い人だと思ってたんですけど……でもアスラン様みたいな優しい方もいるんですね!」



メイリンの言葉に、アスランはどう返していいかわからず、困ったように笑う。
そして、ずっと気になっていたことをメイリンに訊ねてみた。



「それにしても……カガリさんは、どうして昨晩あんな場所にいいたのでしょうか?」



さっきまで嬉々とした表情を見せていたメイリンが、その質問をされると急に顔が曇り出して、言葉を詰まらす。



「そ、それは……私の口から言えることじゃないです……。ここでは、自分の口から他の遊女について話すことは禁じられているので。」



それは、遊女の人間関係のトラブルを防ぐためだった。
客を取るために、根も葉もない噂や悪口を流して、最終的にそれが原因で派閥争いなどになって、店の営業妨害になることもあるからだ。
アスランはそれでは仕方ないと思い、何も詳しいことは聞けないまま、二階にあるカガリの部屋に辿り着いた。



「カガリさん、お客さんがお見えです。」



白い障子に向かってメイリンが声を掛けると、すっと扉が開く。
そこから出てきたカガリは、体の線がうっすらと見えるような、薄い生地の着物を着て、黄金の髪は水浴びした後のように雫を滴らせていた。
カガリは、生気の感じない虚ろな瞳でふらりと障子に寄りかかると、アスランをじっと見つめる。



「アスラン様、お待ちしていました。」



そう言って、カガリは口元だけ薄っすらと美しく微笑んだ。
普段のしゃんと背筋を伸ばすカガリとは違う、気だるく色帯びた雰囲気のカガリに、アスランは思わず息を飲む。
カガリは髪結いが中途半端なままに髪を下ろしたメイリンを見ると、白い紙を差し出した。



「メイリン、手を煩わせてしまったな。今日は私の髪結いの人間を呼ぶから、その人にやってもらうといい。」


「いいんですか?」



パァっと顔が明るくなるメイリンに、カガリは微笑む。
同じ店の遊女でも、メイリンよりもカガリのが格が上である為、髪結い職人も普通の遊女よりも腕の立つ職人を持っていた。
「ありがとうございます」と、メイリンが嬉しそうにその場から立ち去るのを見やると、カガリはアスランを自分の部屋に招き入れる。



「あなたは他の遊女からも慕われているのですね。」



昨夜のことなど何事もなかったかのように、アスランは穏やかに話し掛ける。
武士としての冷酷な一面を見てしまったカガリにとって、それは白々しくも映るが、それでもカガリは遊女としての自分を弁えて、卒無く返した。



「メイリンは、私にとったら妹のようなものですから。」



カガリが上品な笑みを浮かべて返すと、アスランも同じことを思ったのか、ふと口元を緩ましてカガリと同じ考えを口にする。



「昨夜の君とは、口調も態度も大違いだな。」



アスランはクスクスと笑うが、カガリは冷めた視線で顔色一つ変えなかった。



「アスラン様、お香をお焚き致しましょうか?」
 

「いえ、結構です。今日は話したいことがあって来たものですから。」 



カガリはチラリとアスランに視線を送ると、手に持っていたお香を引き出しに仕舞った。
そのまま、白く細い指で着物の裾に添えて座ると、アスランと向かい合う。



「お話とは、何でしょうか?」 



アスランと向かい合ったカガリは、首を傾げて艶然と笑う。
そんなカガリに、とぼけるな、とアスランは内心毒ずくが、そんな感情も張り付いた笑顔で返す。



「話の前に、まず着物の上に何か羽織ってくれますか?それでは寒いでしょう。」 



カガリは自分の透けた裸体を見下ろすと、部屋の隅に置かれた箪笥から羽織物を取り出した。
そして、細かい蝶の刺繍が施された羽織物を肩に掛けると、またアスランの前に腰を下ろす。



「お見苦しいものをお見せしてしまいました………実は先程まで、お湯屋に行っていたもので。」


「こんな寒い日にですか?」



釈然としない様子でアスランは聞き返すと、カガリの琥珀の瞳は細められる。
カガリは、そのままアスランの手を掴むと、その長い指を自分の首に触れさせた。



「血を……洗い流しに行ってたのです。」



アスランは息を飲んだ。
自分の指先に触れるカガリの白い首は、綺麗な直線を描いた傷がある。
その傷はまぎれもなく、昨晩アスランの手によってつけられたものであった。
触れる指のすぐ近くには、ドクドクと脈の振動が皮膚伝いで静かに振動していて、それはアスランの心を追い詰めるように蠢いている。



時を切り刻むようにカガリの髪から一滴の雫が零れ落ちると、アスランはゆっくりカガリの首から手を離して、視線を落とした。
カガリはそんなアスランの様子を黙って見つめる。
この男も武士ではあっても、所詮はただの弱い人間なのだと、カガリは思う。
どんなに剣術が強くても、心の弱さを突かれば、その仮面はポロリと剥がれ落ちる。
カガリは、この遊郭でそういう男達を何人も見てきていた。



しかし、アスランはカガリの予想とは違った行動に出る。
少し間を置いてから、アスランの薄い唇は美しい弧を描いて吊り上げた。



「お元気ですか、お仲間の武士は。」



物腰こそは柔らかだが、言葉の節々に棘が刺さっている。
カガリは、この場に置いてもまだそんな余裕のあるのかと、アスランに対して少し目を見張ったが、口には出さなかった。



「……誰のことでしょうか。」


「昨夜、あなたを助けようとした武士ですよ。」


「存じ上げません。」



アスランの言葉に、カガリはそっぽを向く。
しかしアスランは、そうやってカガリが知らない振りをするのは、仲間を庇うためなのだと確信する。



「私は、あなたを追い詰めたいわけではない。私はただ真実を知りたいのです。」



カガリがアスランと視線を合わせれば、そこには感情の読めない顔で淡々と話すアスランがいた。



「何故君があの夜、あの場所で、男みたいな格好をしていたのか。遊女が花街の大門を出ることは禁じられているはずです。」


「それはお答えでき……」


「答えられない、とは言わせない。」



カガリの言葉を遮って、アスランは鋭く言い放つ。
そして懐に差してある刀を手にした。



「そうやって……あなたが黙っていたいなら、私は永遠にその口を閉ざしてあげることもできますよ。」



それは、警告のように鳴り響く静かな怒り。



「……脅迫のつもりでしょうか?」


「はい、そうです。」



あっさりと認めるアスランに、きっとカガリは睨みつける。
きつく着物を握り締めたカガリの白い手は、震えていた。



「でもあなた様は、本当に私を殺すことができるのですか?ご自分の馴染みの遊女だというのに。」



カガリの言葉に、アスランは思わず笑った。



「自惚れないで欲しい。」



張り詰めたような空気が流れる中、アスランは辛辣な口調で話し出す。



「確かに俺はあなたを気に入っていたが、あなたを助けたのはそんな理由ではない。真実を知る為だけに、あなたを生かした。武士の自分にとって、それ以上の感情はない。」



琥珀の瞳と、翡翠の瞳がお互いの心を見透かすように絡まる。



「私が知らない……と、言ってもあなたは殺すのですね?」


「あなたが真実を言ってくれるのなら、俺はあなたを殺さない。あなたの命は俺が保障する。」



その言葉に、カガリはふっと自嘲気味に微笑むと、見下ろすような視線をアスランに向けた。



「真実だなんて、あなた様は面白いことを言うのですね。真実も知らず、私に刀を向けようとしたあなたが。」



挑戦的な視線を送るカガリに、アスランはその瞳を逸らさない。



「……俺は武士だ。今まで生きるか死ぬかというギリギリな戦場で戦ってきた。俺はむやみに人を信じることよりも、いつも真実と嘘をどう見極めるかの方が問題なんだ。」



「だから私に手をかけようとしたのは、仕方の無いことだと?」



カガリは、アスランの言葉を弄ぶように聞き返す。
その言葉には静かな怒りが隠されていたが、それでもカガリの笑みは艶やかで美しかった。



「それは、あなたが白か黒かわかったときに決めることだ。」



アスランがはっきりとそう告げると、二人の間に沈黙が流れる。
無言の隙間で、互いを探り合う。
柔らかに相手の首を絞めような静けさに、
アスランは厄介な女だと、心の中で呟いた。
時折カガリが見せる、獅子のように突き刺さる視線は、アスランには直線すぎて眩しく映る。


自分だって、本当ならば人を殺めたくないのだ。
それを認めるのは、武士としてはあまりに無様な心だとは思いつつ、それでも、幼い頃に母を亡くして以来、自分は人の命の重さを身に染みながら生きてきた。
目の前で人が殺され、そしてそれを制する為に刀を抜き、また自分の手は紅く染まる。
その行為が、いかに矛盾しているもの
だと知りつつも、いつだって世の中の流れは自分の考える時間など与える暇もなく忙しなく動いている。
自分のしていることが正義だと言うつもりはないが、それでもこれが己の武士道なのだとアスランは思って生きてきた



だからこそ、アスランにとってオーブの動きは怖いのだ。
この国の平和を揺るがす巨大な武力を持ち、そして国民を動揺させるだけの説得力を持つ言い訳が、彼らにはある。
彼らが表舞台の現れたら、幕府は意図も簡単に崩れ落ちるだろう。
そして、国民は動揺し、新たな政権が生まれる。
オーブ派にとったらそれが狙いであっても、国民はそんなものを望んでなどいないのだと、アスランは知っていた。
国民はただ自分の親や子、大切な人との、ささやかな生活を送ることを願っている。
そこに、それ以上の望みなんてないのだ。
幼い日の自分がそうだったように。



アスランは、チラリとカガリを見つめる。
彼女が白ならばいいと願う自分と、そんな私情を挟んではいけないと揺れる武士の自分がいる。
それでも俯くカガリの顔は、美しいと
無意識にアスランは思った。
白い陶器のような肌に、長い睫毛の影ができていて、艶然とした色気と、どこか壊れてしまいそうな儚げさが匂い、それはより一層彼女の美しさを際立てていた。
そうして、思わずカガリの顔に手を伸ばすと、カガリは何事だというように琥珀の瞳を大きく揺らした。



「美しい薔薇には棘がある……という言葉があるが、君にも隠し持った棘があるのだろうか?」



カガリの白い頬を撫でて、翡翠の瞳が意味あり気に細められる。
カガリは朱に染まった唇を吊り上げて艶やかな笑みを浮かべる。



「アスラン様……何故、遊女が化粧をするかご存知ですか?」



アスランが黙ってカガリを見つめると、カガリは艶然とした仕草で、その手に自分の手を重ねた。



「遊女は、仕事前に白粉を塗り、朱色の紅を厚く塗ります。化粧は男の気を引く為ではございません。素顔を隠すためにするのです。そして、その素顔は誰も存じません。」



「……だから、俺にも心は開けないと?」



「はい。」



アスランはふっと微笑んだ。
遊女が化粧で顔を隠すように、武士だって鬼の仮面をつけて戦場でいる。
それが、彼女にとって全ての答えとするなら、これ以上昨晩のことを聞き出すのは無理なのだと悟った。



「君は賢い女性だな。立派な遊女だ。」



アスランはカガリの白い頬から首筋に指を滑らす。
カガリはそれに反応することもなく、ただ無表情でアスランの顔を見つめていた。



「君は賢い……だが、少し世間知らずみたいだから教えてあげるよ。」



そうして、アスランは一拍置いてから、カガリの耳元に囁く。



「力なき正義とは、無能のことだ。君がここでどんなに足掻いても、俺は必ず君の尻尾を掴むよ。」



翡翠の瞳と琥珀の瞳が絡まりあう。
足元から影が消えていく、あの日のような過ちはもう二度と犯さない。
アスランはそっとカガリの唇に指を添えて、あの日の残像を胸に刻む。
こうして、芽吹くはずだった小さな花は幻想に沈んでいった。







































 






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